
景行天皇が朝貢をしない筑紫の熊襲を討伐する際に
周防の佐波を前進基地としていた記録が日本書記にあるそうです。
当時は周防ではなく「周芳」(すは)と呼ばれていたようで
佐波に関しては数種類の表記があるとの事です。
仲哀天皇の時代にも熊襲の討伐があり
この時は穴門(後の長門)から豊浦へ入ってるようです。
角鹿(現在の福井県敦賀)に滞在中だった
神功皇后も豊浦に入り海中で
如意珠を得たという話しの残ってるそうです。
この熊襲討伐は、豊浦まで進行したものの
佐波にまで後進したという話しも残っていますが
理由は明らかにはなっていないんだそうです。
しかしこの両天皇と皇后の存在は一方で疑わしいという見方もあり
4〜5世紀、ヤマト政権が九州、朝鮮半島との交渉の実態を
反映してている「話し」だとも考えられます。
つまりこの時代の山口県は、九州と朝鮮半島に対する
重要な前進基地だったとして、重視されたという事のようです。
周防と長門はヤマト政権の支配下にありました。
ヤマト政権の国は全国で130もあるといわれ
周防では4国、長門では2国存在していた事が
「国造本紀」に記されているそうです。
6世紀後半になると、国造が再編されます。
この時に登場するのが「凡値」(おおしあたい)という国の位です。
一般の国と比べて上位にある事を示していて
重要な箇所に与えられ、防長では周防に凡値が任命されました。
これは瀬戸内海の航路を強化すると共に、ヤマト政権の
地方支配の体制強化だと言われています。
特にこの時期、朝鮮半島の新羅との関係が悪化していて
沿岸部は特に強化されていたので、紀伊から長門までの沿岸地域に
凡値を受けた国が点在したんだそうです。
