
1858〜19331 現在の下松市出身
陸軍中将 政治家
長州藩支藩徳山藩末武村に生まれる
1879年に陸軍士官学校卒
1885年に陸軍大学校卒(一期生)
日清戦争では大島混成旅団の参謀を勤め
1897年には軍務局軍事課長を勤めた
1902年に少尉となり歩兵弟9旅団長に就任
日露戦争では参謀次長に就任
1908年に軍務局長に就任し
1909年には陸軍中将に昇進
第13・16師団長を務め1916年に予備役となる
1924年に衆議院総選挙で議員となる
1933年に76歳で死去
プロペラ髭と呼ばれた長い髭をたくわえた容姿や
軍隊にスキーを導入したり変わった一面もあった
下松市笠戸島には外史公園があり
長岡外史の銅像が建っている
また市内では長岡外史顕彰会があり
顕彰活動に取り組んでいる

1981年〜 下関市出身
大相撲力士
豊浦町立豊浦中から埼玉県の埼玉栄高に進学
日本大学進学し相撲部に入部するも
蜂窩織炎の悪化から1年で退部
日本大学を中退後に錣山部屋に入門
2004年の11月場所では三段目で全勝優勝
2005年幕下に昇進
2006年には十両に昇進
新入幕から2年で新入幕を果たした
同年に技能賞・敢闘賞を受賞
2007年は2度目の技能賞を受賞
前相撲から幕内昇進の早さは史上9位
真面目で温厚な人格でファンサービスもよい
高見盛や安馬達と並んで大きな声援を受ける人気力士
地元の下関(旧・豊浦町)や県を挙げて応援されていて
NHK山口では連日対戦結果が伝えられ
岩国市出身の魁傑(放駒親方)以来の大関昇進が期待されている

1973〜 周南市出身
陸上競技選手(コニカミノルタ所属)
熊毛町立大河内小時代は剣道を
熊毛町立熊毛中時代は野球部に所属
1年次の校内マラソン大会で優勝し
2年次から陸上部に転部
3年次に山口県大会3000mで優勝
地元のマラソンクラブにも所属し
大分県で開催されたクロスカントリーに出場し優勝
福岡県の私立高校・大牟田高の監督の目に止まり
大牟田高へ進学
大牟田高卒業後は法政大へ進学
キャプテン・エースとしてチームを支えた
法政大卒業後はコニカミノルタに所属し
1区は磯松に任せればいいと指されるほど信頼され
坪田智夫、松宮隆行、松宮祐行らと共に
駅伝日本一を獲得するに至った
2007年からプレーイングコーチとなり
2008年のびわ湖毎日マラソンを最後に
現役を引退しコーチ専任となった
【成績】
1989年
全国高校駅伝 4位(5区7位)
1990年
全国高校駅伝 2位(3区5位)
1991年
静岡インターハイ 5000m 2位(14分26秒98)
全国高校駅伝 優勝(1区3位)
1993年
箱根駅伝 7位(1区10位)
1994年
箱根駅伝 10位(2区8位)
1996年
箱根駅伝 6位(1区3位)
日本選手権 10000m 7位(28分7秒32)
1997年
ニューイヤー駅伝 8位(1区6位 34分16秒)
東京国際マラソン 47位(2時間28分31秒)
国際千葉駅伝 2位
1998年
ニューイヤー駅伝 7位(1区3位 34分17秒)
ひろしま男子駅伝 優勝(福岡県代表 1区1位 26分42秒)
びわ湖毎日マラソン 26位(2時間16分40秒)
1999年
ニューイヤー駅伝 21位(1区8位)
びわ湖毎日マラソン 43位(2時間22分26秒)
2000年
ニューイヤー駅伝 4位(1区5位 35分00秒)
全日本実業団ハーフマラソン 6位(1時間1分52秒)
フランクフルトマラソン 14位(2時間17分57秒)
2001年
ニューイヤー駅伝 優勝(1区3位 34分58秒)
びわ湖毎日マラソン 19位(2時間14分57秒)
福岡国際マラソン 10位(2時間12分48秒)
2002年
ニューイヤー駅伝 優勝(1区9位 35分01秒)
青梅マラソン 2位(1時間31分19秒)
ロッテルダムマラソン 13位(2時間13分42秒)
フランクフルトマラソン 6位(2時間14分51秒)
2003年
ニューイヤー駅伝 優勝(1区3位 34分46秒)
日本選手権 10000m 12位(28分51秒99)
札幌国際ハーフマラソン 11位(1時間3分41秒)
福岡国際マラソン 13位(2時間11分42秒)
2004年
ニューイヤー駅伝 2位(6区15位 35分04秒)
函館ハーフマラソン 2位(1時間3分36秒)
2005年
ニューイヤー駅伝 優勝(4区1位 29分37秒)
パリマラソン 35位(2時間24分22秒)
2006年
ニューイヤー駅伝 優勝(7区1位 45分06秒)
長野マラソン 11位(2時間18分49秒)
札幌国際ハーフマラソン 79位(1時間6分11秒)
函館ハーフマラソン 2位(1時間3分13秒)
2007年
ニューイヤー駅伝 4位(4区2位 29分37秒)
びわ湖毎日マラソン 12位 (2時間15分39秒)
2008年
びわ湖毎日マラソン 24位(2時間17分34秒)
【自己記録】
5000m:13分40秒44(2001年 ナイト・オブ・アスレチックス )
10000m:28分7秒32(1996年 日本選手権)
ハーフマラソン:1時間1分52秒(2000年 全日本実業団ハーフマラソン)
30km:1時間31分19秒(2002年 青梅マラソン)
マラソン:2時間11分42秒(2003年 福岡国際マラソン)

1963年〜 下関市出身
モデル アイドル
フォトグラファー
1歳の頃からモデルとして活動
15歳の時に一家で上京
80年代後期から90年代にかけて
モデルでアイドル「モデドル」として活動
1994年よりフォトグラファーとしての活動を開始
写真展やインタネーット写真展を展開している
他にも中国皇帝第10代目気孔師や
女性専門クリニックHIJIKIで理事を務めている
【キャンペーン】
1986年キリンメッツ
1989年サッポロビール
1993年アサヒビール
1993年フジテレビビジュアルクイーン
【写真集】
1992年あなたに会いたい〜I want to meet you
1993年ENDLESS LOVE 愛・ときめき永遠に
【ビデオ・DVD】
1989年大冒険 IN ハワイ
VIDEO IDOL スコラ
VIDEO スコラ nu
1993年ANOTHER SELF
2003年アイドル黄金伝説

山口市にある山口県維新百年記念公園は
通称・維新公園と呼ばれ、陸上競技場や体育館
野外音楽堂などを備えた都市公園です。
1963年の山口国体から整備が始まり
1967年に当時の建設省が、明治維新百年記念森林公園に
全国10ヶ所を指定。山口では、県営陸上競技場周辺が
指定され、本格的に山口県維新百年記念公園の
整備が開始。都市公園として現在に至ってます。
2011年の山口国体では、維新公園の陸上競技場が
メイン会場として予定されてるとの事です。
【主な施設】
陸上競技場
トラック:400m×8レーン
フィールド:101m×71m
収容人員:23,000人
日本陸上競技連盟公認の第1種公認陸上競技場
全日本実業団ハーフマラソンのスタート・ゴールとして利用。
サッカー・ラグビー場
フィールド:150m×89m
収容人員:3,850人
Jリーグ入りを目指すサッカーチーム「レノファ山口FC」
(中国社会人リーグ)のホームスタジアム。
スポーツ文化センター
アリーナ :37×62m
約2,100人収
レクチャールーム:31×37m
武道場
29.12×29.12m
メインアリーナでは年1回程度
Vリーグなど国内トップリーグの公式戦が開催される。
野外音楽堂
観客席:2,467席(うち固定席1,667席)
各種音楽・演劇に対応可能な設備が整っており
騒音にも配慮した構造となっている。

1918〜1990 周南市出身
写真家
木村伊兵衛・土門拳などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人
太平洋戦争後の日本の風俗や文士・風景などを写真を撮影した
林忠彦の名を世に知らしめたのは銀座のバー「ルパン」で
太宰治等の酒場での姿や坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景
晩年は癌に冒され脳内出血のため半身不随となりながらも
東海道を中心とした写真を撮り続けた
平成4年郷里の徳山市(現・周南市)と徳山市文化振興財団により
アマチュア写真家振興の目的で「林忠彦賞」が創設された
周南市美術博物館には林忠彦記念室が設けられている
1935年 現在の徳山商工卒業後に大阪の
中山正一写真館で修行
1939年 東京光芸社に入社
1941年 日本報道写真協会会員
1942年 在北京日本大使館の外郭団体として
華北弘報写真協会を設立
1947年 銀龍社を結成
1950年 日本写真家協会設立に参加
1955年 バヤリース・フォト・コンテストに優勝し渡米
1961年 日本写真家協会副会長に就任
1971年 日本写真協会年度賞を受賞
同年には日本写真協会理事に就任
1972年 二科展出品作で総理大臣賞を受賞
1981年 日本写真家協会副会長を辞任し名誉会員となる
同年全日本写真連盟理事に就任
1983年 紫綬褒章を受賞
1988年 勲四等旭日小綬章
日本写真協会功労賞を受賞
徳山文化協会より特別文化功労者として表彰
1989年 徳山市市民文化栄誉賞を受賞
1990年 「林忠彦の時代」を開催
そのオープニングセレモニーで倒れ入院する
同年12月に死去
















