長州山口 防長っ子
東京在住の山口県出身者がお届けする山口の魅力と日常と論
周防国・長門国の誕生
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律令制度が成立されると、国郡里制が施行されました。
(里は後に郷と変更される)
従来はその地域の豪族が支配してきましたが
この時期から都から派遣された国司による
中央集権的支配が行われるようになります。
周防と長門の正式な建国時期は不明のようですが
「書記」から考えると7世紀の後半だと推測されています。
周防は当初周芳(すは)国と称されていたようで
周防国へと変更したのは8世紀初頭だと
「続日本記」から読み取れるそうです。

成立当時の周防国は、大島郡・熊毛郡・都濃郡
佐波郡・吉敷郡で、721年に熊毛郡から玖珂が独立し
玖珂郡となり六つの群で構成されました。
長門国は、厚狭郡・豊浦郡・美祢郡・大津郡
阿武郡の五つの群で構成されていましたが
実は見島群も加わっていたので六つの群なのですが
何故か五群とされていて、その理由は分かってないそうです。

周防国の里(郷)は、大島郡で三里・玖珂郡で十里・熊毛郡で七里
都濃郡で七里・佐波群で八里・吉敷郡で十里です。
長門国では、厚狭郡で九里・豊浦郡で八里・美祢郡で六里
大津郡で九里・阿武郡で八里です。

現在山口県は中国地方に属してる地域ですが
この頃よりすでに中国という名称が存在しており
周防・長門の両国も、この中国に属していました。
また周防国は865年に次官がおかれ上国に昇格しています。

国司が政務を行う政庁には国府が置かれました。
周防国には佐波郡に置かれ、長門国には豊浦郡に置かれ
現在でも防府・長府といった地名が残っています。
長門国府は明確な記述などが残ってないのに対し
周防国府は近年の調査結果によって規模や構造が
具体的に明らかになっています。
そのため防府は、国府の古態を示す典型として有名なんだそうです。
また、古代時代の終わりに入ると、各地の国府は
廃絶に至りましたが、周防国の国府は東大寺再建の
料国に当てられ、国府を保ったので昭和12年には
史跡にまで指定されました。



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ヤマト政権と防長
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景行天皇が朝貢をしない筑紫の熊襲を討伐する際に
周防の佐波を前進基地としていた記録が日本書記にあるそうです。
当時は周防ではなく「周芳」(すは)と呼ばれていたようで
佐波に関しては数種類の表記があるとの事です。

仲哀天皇の時代にも熊襲の討伐があり
この時は穴門(後の長門)から豊浦へ入ってるようです。
角鹿(現在の福井県敦賀)に滞在中だった
神功皇后も豊浦に入り海中で
如意珠を得たという話しの残ってるそうです。
この熊襲討伐は、豊浦まで進行したものの
佐波にまで後進したという話しも残っていますが
理由は明らかにはなっていないんだそうです。

しかしこの両天皇と皇后の存在は一方で疑わしいという見方もあり
4〜5世紀、ヤマト政権が九州、朝鮮半島との交渉の実態を
反映してている「話し」だとも考えられます。
つまりこの時代の山口県は、九州と朝鮮半島に対する
重要な前進基地だったとして、重視されたという事のようです。

周防と長門はヤマト政権の支配下にありました。
ヤマト政権の国は全国で130もあるといわれ
周防では4国、長門では2国存在していた事が
「国造本紀」に記されているそうです。
6世紀後半になると、国造が再編されます。
この時に登場するのが「凡値」(おおしあたい)という国の位です。
一般の国と比べて上位にある事を示していて
重要な箇所に与えられ、防長では周防に凡値が任命されました。
これは瀬戸内海の航路を強化すると共に、ヤマト政権の
地方支配の体制強化だと言われています。
特にこの時期、朝鮮半島の新羅との関係が悪化していて
沿岸部は特に強化されていたので、紀伊から長門までの沿岸地域に
凡値を受けた国が点在したんだそうです。



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古墳時代
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現在の山口県の地域に、王が登場したのは
現在の熊毛郡田布施町です。
この王の古墳は国森古墳といい
弥生時代の地方色を感じさせる形なんだそうです。

熊毛王族は二代に入ると田布施から
柳井に移動したようです。
柳井市には茶臼山古墳が築かれていて
この古墳から採取された単頭双胴怪獣鏡は
国内最大の副葬で、他にも鏡、鉄の武器、ガラス玉
といった、3種の神器なども発掘されています。
また、王を埋葬した棺は、ヤマトの大王と同じ
竪穴式石室が作られていて、熊毛王の権威が伺えます。

三代の熊毛王は女王だったようです。
神花山古墳に埋葬されていた遺骨を調べると
20代の女性である事がわかったそうです。
女王になった経緯などは不明だそうですが
若くして亡くなったのは、慢性的な鉄分不足といわれています。

熊毛王族は4代目に最長期を迎えます。
ヤマトに忠誠し、独自の貿易により勢力を拡大しました。
4代王を埋葬した白鳥古墳が、その権威を表しています。
全長120m、高さ11mで、大王墓と同じ
三段構築を許された瀬戸内海最大の前方後円墳です。

三代熊毛女王の他にも、山口では女王がいたようです。
現在の山口市の円墳、兜山古墳の埋葬者は女性のようです。
また、景行天皇が防府で野営した祭に、地元の軍勢を連れ
はせ参じた女性がいたそうで、秋穂の地を治めた
女王がいた事を、日本書紀で知る事ができるそうです。
瀬戸内海を西に進むと、現在の山陽小野田市に
妙徳寺山古墳があり、埋葬者は女性だそうです。
近年では、山口市から小さな前方後円墳が発見され
新宮山古墳と名付けられました。
この古墳の埋葬者は女性で、王の名に相応しい
副葬品も発見されたんだそうです。
この時代、山口では4人の女王がいた事が分かっています。

六世紀には入ると古墳の造営がピークになります。
山口でも甲山古墳群や大浦古墳群などが発見されています。
元々は王の権力を示した古墳が
民衆によって造営されるようになります。
こういった民衆を取り締まる事によって
古墳時代が終って行ったんだそうです。



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弥生時代
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山口では日本海に面した響灘の海岸沿いで
弥生人の人骨や貝塚、装飾品、土器などが発見されています。
当時は蒙古襲来時の、蒙古人の人骨と見られていたようですが
調査の結果渡来人である事がわかりました。
この地域の弥生人は北部九州・山口型弥生人と呼ばれています。

弥生人が持ち込んだ文化は今日の日本に深く根付いています。
縄文人が行っていた狩猟の生活から農耕の生活になりました。
金属器を作り、機を織り、環濠の集落を築いていきます。
また、戦争が日本に登場したのも弥生時代といわれています。

北部九州・山口型の渡来人は、中国大陸から朝鮮半島を経て
海峡を渡り響灘沿岸(北浦)についたと考えられていました。
しかし近年の土井ヶ浜遺跡の調査によると違うようです。
韓国・慶尚南道の礼安里古墳群と、山口の土井ヶ浜遺跡の弥生人
との人骨を比較調査したところ、ルーツは見出せなかったようです。
また靭島などの遺跡調査からもルーツを見出せなかったようです。

弥生時代は戦争が始めて行われた時代ですが
山口では戦乱が少なかったようです。
戦闘用の武器類も、他の地方の弥生遺跡に比べて
ごくわずかなんだそうです。
守りを固める抑止としての機能だと考えられています。
山口で代表する守りの村は、岩国市の清水遺跡です。
環濠を三重にめぐらせた集落の跡が発見されています。

こういった戦争を繰り返し、古代国家形成へと繋がってヤマト政権や
百以上の国に別れる事につながっていきます。



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縄文時代
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山口県では縄文遺跡が70ヶ所くらいあるそうです。
大部分が内陸ではなく、海沿いに点在してるようですね。
主な遺跡は、白潟遺跡・雨乞山遺跡・土井ヶ浜下層遺跡
厚島遺跡・神田遺跡・六連島遺跡・常盤池遺跡・長沢池遺跡
美濃ヶ浜遺跡・上地遺跡・岩田遺跡・黒島浜遺跡などだそうです。

こういった山口の縄文人は漁民として生活していました。
しかし、東日本の縄文人とは違い、貝塚の形成は
あまり行っていなかったようです。
日本海側では、漁の道具として石器の釣り針を使用していました。
材料となる石器に、黒曜石を使っていたようです。
この黒曜石は、現在の大分県姫島まで取り行っていたようです。
縄文人も海に舟(丸木舟)を浮かべて行動していたんですね。
瀬戸内海側では、石錘が多く発見されていて
釣り針は発見されてないそうです。
瀬戸内海側では、網による漁を行っていた事がわかりますね。

山口の縄文人が多く獲っていた海産物はチヌ(黒鯛)のようです。
エビ・カニ・タコ・イカなども獲っていたようで
中には、大型のマグロや鯨も漁獲していたんだそうです。
海の恵みを受けながら、生活を形成していったんですね。
この海という舞台・交通路は後々の時代に
大変重要な意味を持ってくるようになります。



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