都政の政に重要な選挙なので、僕も候補者の中から
しっかりと人選して、投票に行こうと思っています。
さて、皆さんは、どのようにして立候補者を選んでますか?
政党でしょうか?政策でしょうか?無所属でしょうか?
それとも選挙当日にポスターを見て決めてるでしょうか?
色々な決め方があると思います。
実は僕、自分の選挙に取り組む姿勢を反省しているんです。
これまで僕の選挙への投票は、いい加減なものでした。
僕は基本的に支持政党・不支持政党がなく
また、明確な思想もなかったので、選挙の時は
ポスターだけを見て、立候補者の事をろくに調べもせず
投票していたのです。今にして思うと、とても愚かですよね…。
僕も今月で31歳です。31のおっさんが、選挙での投票を
ポスターだけ見て決めてるなんて、あまりにも無責任ですよね。
政は当然国民・市民に直接影響します。
もっと重く考え、有権者として責任を
持たないといけないといけません。
インターネットが普及してる昨今なので
立候補者がどんな人なのかは、調べればすぐに分かります。
どのような事を調べれば良いか考えてみました。
まずは政策です。大事な事柄ですよね。
どの人の政策に一番共感を感じるか。
現実的にこの政策は可能なのか?
時々、世情を無視して、甘い言葉だけを
投げかける立候補者もいるので、世情と政策も
ちゃんと照らし合わさないといけませんね。
次に政党・グループです。
僕はこれが一番大事だと思ってます。
政策が一番大事なんじゃないの?と
思う人が多いと思いますが
所属してる政党やグループの幹部連中
つまり、運営陣ですよね。こういったトップと
立候補者の政策・思想が必ずしも合致してるとは限らないんです。
ですから、立候補者と政党・グループの方向性も
ちゃんと調べておかないと、せっかく当選しても
党やグループの方針に埋もれる可能性も大なわけですね。
次に無所属。最近は無所属って流行ってる感じがありますよね。
実は無所属って意外にどこかのグループに所属してたり
どこかの政党の後押しがあったりするんですよ。
ですから、党のしがらみが無くて良いんじゃない?
と、思ってると、実は自分の嫌いな政党が後押ししてたとか
自分の嫌いなグループの人間だったりするんですね。
最近は僕も少しずつですが思想が構築され
支持政党はないものの、不支持政党は持つ事ができました。
歳をとって、多少は憂国の精神が芽生えたのかもしれません。
日本人は憂国の精神が欠落し、公が鬱陶しいと感じる人が
多いんじゃないでしょうか?その為、選挙などは面倒だし
「興味が無い」という無責任さに陥ってないでしょうか?
そのわりには、公を叩く事には必死ですよね。
国民が国の為に何かをするのではなく
国が国民に何をしてくれるのか?を期待する日本人。
そろそろナショナリズムを考える頃合いなのかも…。
ナショナリズムってどんな国でもそうですが、極普通の事なんですよ。
選挙をきっかけに、いち国民として、いち有権者として
国・公というものを考えてみてはどうでしょうか?
自分達が住む国・地域の為に、どんな人材を送り出したらいいのか。
追伸
今回、誰に投票するか調べていたら、自分に合った
候補者が2人見つかりました。2人とも無所属ですが
2人とも、某政党の後押しや、某グループに所属していました。
1人は、ブルーリボンをつけていて、政策にも共感できる
立候補者でしたが、後押ししてる人物が某政党の中でも
僕が遺憾に思ってる某派の議員でした。
ブログなどを見ても、不祥事を起こした議員と
写真に納まってたりと、個人は支持できるかもしれないけど
後押ししてる人達の影響力も無視できないので
この立候補者に入れるのは、止める事にしました。
もう1人の立候補者は、無所属ですが、某グループに
参加していて、そのグループを仕切ってる人の
政策も調べましたが、立候補者共々、共感できるので
この立候補者に入れようと、思っています。
どんな政策なのか?どこの政党で誰の派閥なのか?
無所属だがどの政党の後押しがあり
何かのグループに所属してるのか?していないのか?
立候補者を選ぶうえで、とても重要な事柄だと思います。

1834〜1871 現在の萩市出身
政治家
長州藩士柏村安利の四男として誕生
1844年に波多野直忠の婿養子となり
波多野金吾と称した
1853年のペリー来航時には
大森台場警護の為に出張
1859年には藩の軍制改革に参加
藩世子・毛利定弘と共に京へ入洛し
京都詰の事務方として尽力した
1864年には蛤門の変・馬関戦争
第一次長州征伐が勃発し
藩内の政情が正義派から保守派に移ると
野山獄に投獄されるが中間派だった為に
処刑は免ぜられた
(広沢は中間派でも正義派寄り)
1965年に高杉晋作が決起し藩内を統一すると
政務役に就任し藩中枢に参加
藩命によって名前を広沢藤右衛門と改める
改名の翌月には広沢兵助と改名した
1866年の第二次長州征伐では
安芸国厳島にて勝海舟と交渉講和を行い
土佐藩の坂本竜馬や薩摩藩の五代才助と会談し
商社示談箇条書を作成した
新政府発足後には参与・海陸軍務掛・大総督府参謀
内国事務掛・京都府御用掛・参議を歴任
戊辰戦争では米沢藩の宮島誠一郎と会談
会津藩帰正の周旋を建白させるなど
会津藩に対して寛典論を展開し
木戸孝允と共に会津藩には寛容的だった
1869年には復古功臣として木戸孝允や
大久保利通と同じ永世禄1800石を賜り
民部大輔や参議の要職を務めた
1871年に刺客の襲撃に合い死亡
傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった
この暗殺事件は横井小楠・大村益次郎に続く
維新政府要人の暗殺であり
広沢を厚く信頼していた明治天皇は
「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する
異例の詔勅が発せられた
旧幕府側の不平士族の仕業ではないかという
見方が強いが犯人は見つからず迷宮入りとなった
この事件の捜査では広沢家の家令と広沢の妾が
密通して広沢家の金を流用していた事も判明した
1879年には維新の功績から広沢家は華族に列せられた
士族から華族になったのは広沢・木戸・大久保の3家だけである
広沢が生前つけていた日記は木戸や大久保の日記と並び
幕末・維新を知る一級資料として評価が高い

天保時代になると日本は、諸矛盾の激化などで
幕藩体制に動揺が走り、優内外患の時代と呼ばれます。
長州藩では1831年に大一揆が勃発しました。
山口の皮番所で、藩の御用達商人である
石見屋の積荷から皮が発見されます。
当時の瀬戸内沿岸では、稲が穂を実らす時期に
田の近くを皮が通ると、大風雨が起こるという
迷信が信じられていたので、皮番所を設置していました。
その皮番所で皮が発見される事は、大事件なのです。
この事がきっかけで、三田尻の石見屋は打ち壊しに遭います。
この打ち壊しは、石見屋だけでは止まらず
米相場に関係してる者や、役人の家までも打ち壊し
さらには、小郡などにまでおよびました。
この一揆は、湯田において、鎮静工作が打たれ終結します。
この鎮静工作は、武力によって一揆を抑えるものではなく
農民側の要求を湯田の龍泉寺で聞くというものでした。
数日後には、周防大島で、米を密売しようとした者が発見され
打ち壊しが起こり、徳山にまで一揆がおよびました。
この一揆は、800軒近い豪農商層が打ち壊しに遭った
全国的にも有数の大一揆でした。
この一揆の主体となったのは「買喰層」と呼ばれる
自分の田畑からの収穫では食料がまかなえずに
様々な雑業をしながら、その収益で食料を買い
生活している人達だったそうです。
長州藩では一揆の参加者を逮捕し、萩の牢屋へ送りました。
逮捕した数があまりに多かったのか、1畳に対して
8人が詰め込まれる程だったそうです。
この一揆の発起人であった、川上村の又衛門は
誅伐の判決を受けましたが、獄中で病死。
指導者だった吉部村の弥右衛門達は死刑、または病死。
こういった発起人や指導者達は、地元の人達に
義民として称えられ、現在でも佐波木地蔵として祀られています。
この一揆から、長州藩は、改革を推進していきます。
長州藩主・毛利敬親は、村田清風・香川作兵衛を
地江戸仕組掛に任命し、改革に着手します。
しかし、清風に十分な権限が与えられず
改革に十分な成果が得られなかった為
清風を、江戸当役用談役に昇格させる事になります。
清風を中心に15名が藩の改革を任されました。
清風は長州藩の負債を解消する為に支出の抑制を掲げました。
清風は厳しい倹約令を藩内に敷き、華美な家作を禁止させ
女子綿服など、日常生活の隅々にまで規制を徹底させました。
農民支配政策では、一揆を勃発させない為に
荒畑地の租税を廃止し、休石法の拡大、年貢微収法の
改善などが取り込まれました。
商業政策では、藩の専売制などの興利事業が
農民を弱体化させ、政治の乱れの原因となると考え
興利を禁止させ、商業利潤の収奪を禁止させました。
しかし、藩外からの商業利潤は得ようと考えており
徳川幕府の流通政策で、商品は西廻り航路で
大坂に集中していた事から、商品を一時、下関に留め
市場の値段が上がってから、大坂に運び
利潤を得るという方法に打って出ました。
商品を運ぶ船に倉庫と資金を提供し、倉庫料金や
貸付利子を取ることによっても利益を上げようとしました。
これらの資本は、豪農商の資本を投入させていて
地方修補の改革も意図に入れていました。
この改革の結果、下関には他藩の船が多く入港し
大きな利益をもたらす事に成功しました。
しかし、この政策は、幕府の大坂を軸とした市場統制と
ぶつかる事になり、幕府からの圧力が予想され
清風は、改革の第一線から退く事になってしまいます。
天保の改革では、武力の強化にも取り組まれていました。
これは、清がアヘン戦争でイギリスに負けた事から
外圧への対応として盛り込まれた改革でした。
洋式銃の重要性を認知し、洋式軍隊の導入を図りました。
しかし、本格的な取り組みは、ペリー来航以降に行われます。

2009年6月放送(テレビ朝日)
山口・萩のうまいもん5つ
食の狩人・石塚英彦さんが
山口・萩のうまいもん巡りに出かけました。
【夏蜜柑丸漬】
山口原産の夏蜜柑。幕末創業の和菓子店・光國の
名物・萩産の夏蜜柑をまるごと使った、高級和菓子・夏蜜柑丸漬。
【蒸気まんじゅう】
蒸気まんじゅう」誕生の歴史は日露戦争の時。
萩沖に出没するロシアの蒸気船を「焼いて食ってしまえ!」
と、蒸気まんじゅうが生まれたそうです。
【見蘭牛】
萩沖に浮かぶ見島には、和牛・見島牛がいます。
見島牛は、高配されていない和牛で、天然記念物に指定。
その見島牛とオランダの牛を高配させたのが、見蘭牛。
見蘭牛の大トロ握りは絶品です。
【萩たまげなす】
萩たまげなすは、大きさ・味と、たまげるように、凄い事から
呼ばれるようになったそうです。一本の苗から採れるナスは
多くても、わずか4本で、大変貴重。萩たまげなすと呼ばれるのは
長さ30センチ以上、重さ500グラム以上のものだけ。
糖度が高いのが特徴で、生でかじると、りんごのような甘さ。
【萩のケンサキイカ】
ケンサキイカはイカの女王と呼ばれています。
中でも、漁場が近い萩沖で獲れるものは、新鮮で最高級です。
番組では、食材の他にも観光地も紹介されました。
【秋芳洞】
美祢市に広がる日本最大のカルスト台地・秋吉台。
その地下に広がる、秋芳洞は、東洋屈指の大鍾乳洞。
悠久の時の流れが作り出した自然の芸術。
天然のクーラーで、常温は17℃だそうです。



